ソ連の背信侵攻と、これに伴う暴民の発起、および敗戦による無警察状態とが多くの日本人小児を孤児とすることになった。 では、孤児を生じたケースについて次のように分けてみよう。 (1)撃滅孤児───ソ連軍や暴民に包囲殺戮された戦場で、親の死体の陰で生き残った子。 あるいは、集団自決の現場で生き残っていた子であって、現地住民の手で救出された子である。 (2)避難孤児───避難の途中、親とはぐれた子であって、現地住民に拾われたものである。 (3)難民孤児───難民収容所で、“餓死するよりは”と親が現地人に預けたり買い取られた子。 また、親が死んだ後、現地人に引き取られた子である。 (4)拉致孤児───日本人難民は、最終的にはハルピン・新京・奉天・大連などの大都市に辿り着き、そこで帰国の機会を待った。 当時は無警察状態であった。 ちょっとしたスキに子供が拉致され、次々と人手に渡り、売り飛ばされて最も不幸な道をたどった。 日本人であることの証明すら難しい。 ………以上の他に、潜在孤児がいる。 これは、現地の医師、技術者、あるいは地位ある人の夫人になるなど、生活が安定し、日本人であることを名乗らずにいる者たちである。 また、奥地にいて実態がつかめていない者もこれに含まれる。 それでは、現地人がなぜ日本人の子供を引き取って育てたのか。 その理由は、中国は戦乱の多いところである。 その度に戦争孤児が発生した。 ために、孤児を引き取ることは、社会習慣であった。 上述の撃滅孤児や避難孤児は、これに該当する。 人道的な社会習慣に救われたのである。 一方、難民の中で、親が現地人に預けたものは、親が帰国する際に引取に行っても返してくれなかった。 また、日本人の子供を買い取り、拉致してまで欲しがったのは、なぜか? その理由は、現地人から見れば、日本人は高嶺の花であった。 この際、優秀な日本人の子供を手に入れたいと考えたのではなかろうか。 この事は、その当時の日本人女性の多くが、生活のために、あるいは拉致されて現地人の家庭に入った事と考え合わせてみれば理解できるであろう。 残留孤児の実数は判明しないが、各種情報と資料によると五○○○人とも六○○○人とも言われている。 ※河口豊氏投稿 |