十如是といえば方便品に説かれる因果の教説のことである。
法華経が原典から漢語に翻訳された際、六書の経典に訳された。
正法華経、添品妙法蓮華経、そして日頃私たちが手にする鳩摩羅什訳の妙法蓮華経の三書が現存する。
この十如是は鳩摩羅什の法華経だけに見られるもので原典はおろか他訳にも存在しない。
しかし、鳩摩羅什が自分勝手に解釈したものではなく、大智度論等を参考にして法華経の教説を最大限に引き出し・活かすために意訳したと推察されている。
天台・日蓮宗各派では、この十如是を拠り所として十界互具・一念三千を開いて仏法の極理としているほどだ。
鳩摩羅什の意訳には、他訳の法華経にはない力強さがある。
また、彼の聡明さに感嘆せざるを得ない。
十界互具というのは、地獄にも仏がいるという救いと、仏界にも地獄界があるという厳しい戒めの考え方である。
こういう認識は平和の中では決して生まれることはない。
人生において絶望と希望をくぐり抜けた人間が持つ、深い闇と心奥底の光、深い思惟の中から浮かんでくるものであろう。
鳩摩羅什は戦乱の中にあって祖国を滅ぼされ、17年間捕虜の身を送り、強制結婚・還俗させられた。
後に長安で経典翻訳に従事した僧である。
その波乱の人生が人間・人生洞察を深め、彼の心の叫びが名訳妙法蓮華経を生んだのに違いない。
確かに、彼の翻訳には大胆な創作・意訳の疑いが指摘される。
しかし、彼の翻訳が後代の仏教界に与えた影響は計りしれないのだ。
ひょっとすると彼が居なかったら、これほどまで法華経が大衆に受け入れられることはなかったかもしれない。
日蓮もまた生まれ出でなかったかもしれないのだ。
そこに不思議な因縁を感じざるを得ない。
ちなみに、鳩摩羅什はクマーラ・ジーヴァが元の発音。
鳩摩羅が姓で什が名である。
一念三千は天台教学の教理で、先の十界互具が10X10=百。
それに十如是が乗されて一千となり、過去・現在・未来とあるので三千。
それが一念の中に瞬時に在るから一念三千な訳です。
超簡単に言えば、原因があって結果があるのだが、それをもっと深く詳しく解析して説明したものである。
寺報176号から転載