『法華経』というお経はどういう経典なのか?

 仏教における法華経の位置あるいは、釈尊と『法華経』とはどういう関係にあるのか最初に申し上げたいと思います。
 まず『法華経』は、お釈迦さまが説かれたものなのかどうか?。
 もちろん、昔の人は「インドの霊鷲山で、お釈迦さまが直々に説かれたもの」と固く信じていました。
 ところが最新の仏教研究では、お釈迦さまが亡くなられてから四百年の後に今の形の法華経が出来たと言われています。
 法華経の中に、「後五百歳」という言葉があります。

 「正・像・末の三時」という考え方があります。
 正法とは、お釈迦さまの教えが正しく世の中に行われる時代で、正法一千年とも五百年ともいいます。
 次の像法は、形だけの教えが伝わり、その精神は失われてしまった時代で一千年あります。
 末法は、お釈迦さまの教えも行いもなくなった乱れた世の時代です。
 世の中のものは、すべて諸行無常であってお釈迦さまの教えといえども例外ではありません。
 このままでは正法は滅びてしまうという危機意識が高まり、仏弟子たちは決意を新たにして教えを世に広めなければならない……このような事が、法華経の中に良く出てきます。
 法華経が出来たのは西暦一五○年頃、ちょうど正法から像法に移って行くあたりで、そういった思いの強い時代です。

 もし法華経の成立がそうであれば、お釈迦さまの教えは伝わっていないのか……という疑問がわきます。
 でも、それは心配いりません。
 私たちは、お釈迦さまから言えば二千五百年後に生きています。
 時代的にそれだけ離れていても、これがお釈迦さまの教えだ……という信念をもって受け取ることが出来ます。
 そこに、お釈迦さまの偉大な人格というものがあると思うのです。
 ましてや、お釈迦さまから五百年の時代であれば「これこそお釈迦さまの教えに違いない」と感得できた事でしょう。

 では、この法華経……お釈迦さま直々の言葉ではないとしたら、いったい誰がどうやってその句々を考えたのでしょうか?
 端的に言いますと、禅定によって仏と菩薩に出会う……これによって法華経は成立しています。
 禅定は、精神を集中統一そして解放することです。
 禅定いわゆる瞑想に入ってお釈迦さまを念じますと、その瞑想の世界に釈迦仏が現われてくる。
 いわゆる観仏三昧です。
 要するに、瞑想における仏と自己との出会いです。
 常に親のことを思っていると、自然に夢の中で亡くなった親と出会うことが出来るように、仏を念ずる瞑想の修行をすると瞑想の世界でお釈迦さまに会って教えを受ける……そういった体験も可能です。
 法華経をはじめとする大乗経典は、深い瞑想の世界において作られた経典なのです。

 瞑想は仏道修行の一つであり、お釈迦さまと同じような修行をすれば自然にお釈迦さまと同等の真理を悟れる……。
 確かに、法華経そのものは釈迦滅後五百年たってから出来たものですが、そこには間違いなくお釈迦さまの思想が含まれているのです。
 そして当然ながら、法華経そのものをテキストにして修行すれば、お釈迦さまの悟りの世界に入って行けるという意味があります。
『ほとけは常にいませども
 うつつならぬぞあはれなる
 人のおとせぬあかつきに
 ほのかに夢に見えたまふ』
 仏さまはどこにもいらっしゃるけれども、私たちの眼では見る事ができない。
 それはとても悲しい事だ。
 しかし、朝早く仏殿に詣でて、もっぱら仏陀への祈念を凝らしていると、その瞑想の世界にほのかに仏が見えてくる。

 私たちは、どういうふうに仏陀あるいは仏教というものに挑んだら良いのだろうか。
 それにはいろいろな方法がありますが、その一つがこの詩に示されているように思います。
 瞑想によろうと何によろうと、仏さまとふれあう事が出来る心が私たちには備わっています。
 この心を仏性と言います。
 この仏性は、生きとし生けるものすべてに備わっている……と仏教では説いています。
 ところが、私たちはそうした心が自分にあることを知らない。
 自分の中にある仏性に気づかないまま生活をしている。
 その仏性に気付き・目覚めて、それをどこまで深く開発するか、そこに仏教・仏道があるのだと思います。
 私たちの心の中には、どんなに罪に汚れても汚れない心がある。

 例えば、私たちが何か悪い事をする。
 その時、それが悪いことだというのは自分が一番よく知っている訳です。
 そして、自己の罪の深さを自覚させてくれるその心は、汚れていないのです。
 もし、全部の心が汚れてしまったら、自分が悪人であることに気が付かない。
 だから、自己の悪に気が付く心は悪ではありません。
 そういう心・自性清浄心が私たちの心の奥底にあると、法華経は説いています。
 釈尊も、その仏性に目覚められ、修行されて仏陀となられたのです。
 そんな同じ性質を持つ心が、私たちにもあるというのです。
 そして、法華経にしたがって修行していけば、おのずと仏陀に近づくことが出来ると法華経自身が語っています。