二千年前の予言、法滅尽経 「法滅尽経」、れっきとしたお経の一つですが、その名を聞いた事のある読者は少ないと思います。 それは、ごく一部の専門家たちの間だけで密かに読みつがれてきたからです。 ところが、最近になって、このお経に関心を持つ人が急に増えてきました。 お経の内容が、現代の混乱した世相をものの見事に言い当てていることと、とりわけ日本の将来について一種の予言が述べられているからなのでしょう。 蓮華色を見舞った愛欲の悲劇 お経のなかに、こんな話があります。 ヴァンサ国の首都ウッジェニーという所に、大変美しい娘がいました。 彼女は、蓮華のように爽やかな人だったので、蓮華色(れんげじき)と呼ばれていました。 蓮華色は、結婚し、子を宿して実家に帰り女の子を産みました。 しかし、蓮華色がお産をしている間に、夫は彼女の母親と情を通じてしまいました。 蓮華色は、この事に気が付き、娘が八歳になった時に家出してしまいます。 蓮華色は、ベナレスの町はずれまで来て、飢えと疲れの為に行き倒れとなり、ベナレスの商人に助けられます。 この商人は蓮華色を妻として迎え、彼女は何不自由なく暮らします。 ある日、商用で夫がウッジェニーの町に行くことになりました。 蓮華色は、「あの町には淫らな女が多いですから、気をつけて下さいね」と頼みます。 夫のウッジェニーでの商用は長引き、「二号なら構わぬだろう」とやがて一人の女性と仲良くなり、ベナレスに連れて帰ります。 別宅を造って囲っておきますが、蓮華色に気付かれ、「私はヤキモチなど妬きませんから、家にお連れになって下さい」と乞われます。 そこで、三人で暮らすことになりました。 ある日、夫の留守に、蓮華色がその娘の髪をすいてやりながら、父母の名前を聞いてまたビックリ。 何と、自分がウッジェニーに残してきた娘ではありませんか。 前の夫は母と通じ、今の夫は娘と通じていたのです。 蓮華色は、恐ろしさの余り家を飛び出して、釈尊のもとに行きます。 そして、出家して修行に励みました。 ある日、村はずれのお堂で一人修行しておりますと、かねてから好意を寄せていた男が忍び込み、力ずくで蓮華色に暴行を働きます。 思いを遂げた男が、お堂の外に出たとたん、大地が割れてその中に堕ちて行きました。 この事が教団で問題となり、蓮華色は釈尊から訊ねられます。 「汝は、その時にいかに感じたか」 「熱鉄に身を焼かれる思いでした」と彼女が申し上げると、 「それなら戒律を破ったことにはならぬ」 とおっしゃいまして、釈尊は蓮華色のことをお許しになりました。 お経の中には、このように人間の愛欲の凄まじさや業といったものから、僧侶たちの生活規則、あるいは宇宙の成立………などのことが出ています。 もし、あなたが、お経とは、法事追善の時にお坊さんが読み上げるワケの分からないものだ、というイメージを抱いているとしたら、それは大変な間違いと云えます。 さて、いま上げた蓮華色の悲劇の話にそっくりな事件が日本にもあったのです。 日本の蓮華色の話 湘南地方に住むK子さんは、母親と二人暮らし。 やがてお婿さんを迎えることになり、三人の生活が始まりました。 若夫婦に、すぐ赤ちゃんができ、K子さんはお産のために入院しました。 この間に、このお婿さんは、なんと若い義母と情を通じてしまい、淫らな欲を満たしていたのです。 無事に女の赤ちゃんを産んだK子さんが、一週間目に家に帰ってみますと、どうも、今までと雰囲気が違う。 やがて、義母と夫の関係に気付いたK子さんは、赤ちゃんを置いて家出します。 二十年後、仕事の関係で、偶然にも自分の子供と対面します。 親子であることを確かめ、さらに話を聞いてみると、その娘さんには、結婚の約束をしている好きな男性がいました。 でも、相手の母親が許してくれないとの事。 K子さんが、その相手の男性を調べてみると、彼と母親との間には淫らな関係があったといいます。 何とも恐ろしい人間の愛欲地獄ではあります。 お経には、便所や心中の話もある ある時、一人の僧が大便をしても洗浄しなかったので、排泄物に虫がわき、教団の中で大騒ぎになった。 釈尊は、 「比丘(僧)よ、汝は大便して洗浄しなかったとは本当であるか」 「本当でございます」 そこで、釈尊は次のように説法されました。 「比丘(僧)らよ、大便し、もし水があったら洗浄しなくてはいけない。 洗浄しない者は、悪いことをしたと後で反省することになるであろう」 また、別の話には、 新参の僧がトイレに入ろうとしていた時、古参の僧が押し退けて先に入ってしまい、長く出てきませんでした。 新参僧はガマンし切れなくなり、ブッたおれてしまったのです。 そこで、この事を釈尊に申し上げると、 「トイレは、古参だからといって先に入ろうとしている者を押し退けて入ってはいけない。 来た者から順に、用を足すことを許す」 とおっしゃいました。 この他に、心中事件の話もお経に登場しています。 里帰りしたお嫁さんが、「別の所に嫁に行け」と言われ、夫の許に逃げ帰って夫婦心中した話が経典にあります。 さて、それでは「法滅尽経」をご紹介いたしましょう。 法滅尽経 私は、このように聞きました。 ある時、世尊はクシナガラという所におられ、ちょうどお亡くなりになる前でありました。 たくさんの修行僧たちと書き尽くせないほどの大衆が、世尊のもとにお集まりしていました。 世尊は静かにしておられ、教えを説こうともせられず威光も現われず、ただ黙っておられました。 賢者の阿難は、世尊に礼拝してお尋ねになりました。 「世尊は、いつでも説法をお聞かせ下さり、いつもは威光が現われていらっしゃいます。 こうして、大衆が集まりましたのに、今は光明も現われません。 これには何か深い理由があると存じますが、どうぞ、その心をお聞かせ下さい」 このように申し上げました。 世尊は、阿難に次のようにおっしゃいました。 「私が亡くなった後の事であるが、仏法が滅しようとする時、重罪を犯す者が多くなり、魔道が盛んになるであろう。 魔類が僧侶の格好をして教団や仏教徒の中に入り込み、仏法を内から乱し破壊していくだろう。 魔僧は、俗人の衣服を着て、袈裟も定められた以外の服を喜んで着るようになる。 魔僧は酒を飲み、肉をむさぼり食らい、生き物を殺して美食を追求する。 およそ慈悲心など全くなく、仏の弟子たる僧たち同士、お互いに憎んだり妬んだりする。 そんな末法の世の中でも、まともな菩薩・聖者と呼ばれる人たち・尊敬に値する人たちが出現し、精進修行して徳を修めるであろう。 世の中の人々は、皆、彼らを敬いあがめたてる。 すべての人々を平等に教化し、貧しい人を哀れみ、老人を労い、頼るべき人がない者を救済し、災難に会った人を養うであろう。 まともな菩薩らは、常に経・仏像をもって、人々に奉仕することの大切さを教え、仏さまを礼拝することを教える。 菩薩は、多くの功徳を行い、その志と性質は仏法にかなっており、人に危害を加えない。 自分の身を犠牲にしても人を救おうとし、忍耐強くて人にやさしい。 もし、まじめに仏の教えを実践している人がいるとすれば、魔物の身代わりの僧たちが、皆、これを妬み、非難し、悪口を言う。 そして、世間に彼の欠点をほじくり出して吹聴し、お寺から追い出す。 菩薩の道を実践する僧たちが目の前からいなくなれば、魔の僧たちは寺を荒れ放題にしておくだろう。 魔僧は、自分の財産や金銭をむさぼり貯える事ばかり努め、福徳など全然行わず、衆生を傷つけ、慈悲心など全くなく道徳などもない。 彼らは淫乱な事をし、男女の区別なく悪業を働く。 仏法が衰えていくのは、彼らの仕業である。 徴兵や税金の取り立てから逃れる為に僧侶となることを求め、修行僧の格好をしていても実は修行なぞしていない。 お経を習わず、例え読める人がいたとしても字句の意味も分からない。 よく分かっていないのに有名になりたがり、他人から褒められようとし、智慧や徳もないのに容姿だけは堂々と歩いて見せ、人から供養される事ばかりを望む。 こういう魔僧は、死後に無間地獄に落ちる。 仏法が滅しようとする時、女人は精進して常に徳を積むが、男子は怠けて信心がない。 仏法が滅ぶ時、天の神々はみな涙をこぼし、泣き悲しむ。 作物という作物は実をつけなくなり、疫病が流行し、死んでいく者も多くなって人々は苦しむ。 税金は重くなって、道理に合わない税のかけ方をする。 悪人が海の砂の数より多くなり、善人は一人か二人になる。 世界が最後になる寸前には、日月が短く、人の寿命も段々と短くなって四十歳で白髪になる。 男子は淫乱にして、精も尽き若死にするようになり、長生きしても六十歳ぐらいであろう。 女子の寿命は八・九十歳、あるいは百歳となる。 時に、大水がにわかに起こり、富める者も卑しい者も水中に漂い魚の餌食となるであろう。 菩薩や聖者たちは、魔僧たちに追い立てられ、福徳の地へ行く。 菩薩や聖者たちは、しっかりと教えを守り、戒めを守り、それを楽しみとする。 その人たちは寿命が延び、諸天が守って下さる。 そして、世に月光菩薩が出て五十二年の間、仏法を興す。 しかし、段々と滅っしていき、その文字を見ることも出来ないのだ。 修行僧の袈裟の色も白に変じる。 仏法が滅する時は、例えば油燈の灯が油のなくなる寸前、光が盛んになるのと同様である。 これ以上は、説いて聞かせることが出来ない。 その後、数千万年たってから、弥勒菩薩が下ってきて仏となる筈である」 賢者阿難は、世尊に礼拝して、 「このお経は何と名付けられますか」とお尋ねいたしました。 世尊は、「阿難よ。この経の名は法滅尽経となす。誰にでも説いてよろしい。そうすれば、功徳は計り知れない」 とおっしゃいました。 世尊の説法を聞いた人たちは、皆、悲しみ沈みました。 だからこそ、今のうちに無上の道を修めようと発心した。 そして、皆、世尊を礼拝して退座していった。 |