宗門を分裂させるほど動揺させた方広寺の千僧供養会も豊臣氏の滅亡によって自然消滅してしまった。
受・不受両派も争いのもとが無くなったので次第に和解の方向に向っていったのである…。
家康が亡くなり、不受不施派も公許
いつまでも対立していたのでは宗門の弱体化を招く という危機意識が双方にあったかどうかはともかく、和解の証しとして元和2年(1616)6月1日、受派諸寺の代表日昭が京都妙覚寺に赴いて改悔の作法を行った。
一方、奥師も妙顕寺に出向いて挨拶し、受・不受の和解が成立したかのようであった。
この年、74歳で家康が亡くなっている。
そして元和9年10月13日、不受不施派は所司代・板倉伊賀守勝重から遂に公許を得たのである。
宿願を果たして大喜びの奥師は、直ちに門中ならびに諸寺に披露し、各寺連署して宗義の万代不易を誓い合ったのであった。
このようにして、不受不施義の公許と宗制確立が約束され、ともかく表面上は平穏に戻ったのである。
寺報第191号から転載