不受不施の話(37

豊臣氏の滅亡

 奥師は、京都に帰ってからも千僧供養会への不出仕を貫いていた。
 しかし何のお咎めもなかったばかりか、家康と二度ほど会って面談している。
 そのころ家康は、秀頼に「方広寺の大仏殿再建」を命じ、鋳られた同寺の鐘銘に「国家安康」とあるのは、家康を呪ってその名前を二つに裂いたものだと言い掛かりをつけたり、「君臣豊楽」とは、豊臣氏を「君」に崇める下心からだなどと難癖をつけたりしていた。
 儒者の林羅山や京都五山の僧たちは、これらを種に家康を煽ったり、おべっかを使ったりして、大坂城攻略に向って駆り立てていたのである。
 家康は、諸国大名の経済的疲弊を狙って社寺の修復や再建を大々的に行わせていた。
 それは戦費を賄わせないためだったという。
 しかし豊臣家の経済力は別格だったようで、ために豊臣家を倒す強い理由付けが必要だったのだ。

大坂冬・夏の陣
 家康は二十万の大軍をもって大坂城を囲み、脅迫して外堀を埋めさせ、一度は和議がなったが、元和元年の夏の陣で、大坂城は東軍の凄まじい砲火を浴び、淀君・秀頼の自刃と共に落城したのであった。

寺報第190号から転載