不受不施の話(36

奥師、帰洛す

 御赦免となった奥師が直ぐ京都に戻らず、いったん有馬温泉で数日過ごしたのには訳があった。
 なぜなら、京都の法華諸寺の大半が奥師の主張を是とし支持してはいるものの、なお一部に不満が残っていたからで、その調整が落ち着くタイミングを計るためでもあった。

千僧供養会消滅へ 法華宗内も和解へ
 天下の形勢は一変し、家康は完全に国内の実権を握っていた。
 慶長10年(1605)家康は、将軍の職を秀忠に譲ったが、自らは駿河城に移り、大御所と称して悠々と大坂の豊臣方を圧していた。
 あれほどまでに法華宗内を紛糾させた方広寺の千僧供養会も催されてはいたが、この頃はもう出・不出の件は余り問題にされなくなっていた。
 その理由は、元々この供養会は豊臣家の先祖を弔うものであったのだから、その豊臣氏が衰えれば、家康や諸寺の態度が冷ややかになるのは当然の成り行きであったのだ。

寺報第189号から転載