関ケ原の戦で西軍は大敗を決したが、家康は西国諸大名に懐柔策をとったため、対馬の宗氏らの領地などは安泰で、敗戦の痛手はほとんど受けなかった。
だから、奥師の配所生活も戦前と余り変わらなかった。
ただ、流罪の歳月が長引くにつれて苛立ち始め、時には謗法人たちが野さばるのを憎んだり、望郷の念に駆られて矢も盾もたまらなくなったりしたようである。
対馬に流されて12年たち、慶長16年になると日経らが盛んに赦免運動を展開したので、少しずつではあるが赦免の機運が熟してきたようでもあった。
奥師自身も、赦免の日が近付いているのを悟るようになっていたようだ。
一方の家康もこの頃、京都所司代・板倉勝重に「日奥に変わりはないか」と奥師の安否を尋ねており、板倉が「変わりはございません」と答えると、さも満足そうに頷いていたという。
そして慶長17年の1月6日、駿府城で「日奥をすぐ元の寺に還住させよ!」との赦免状が発せられ、直ちに出迎えの船が対馬に出されたのである。
喜んで帰路した奥師はであったが、直ぐに京都妙覚寺には戻らずいったん有馬温泉で数日過ごしたのであった。
寺報第188号から転載