慶長五年(1600)、奥師は6月2日に小泉を立ち、同6日に大坂の港を出帆した。
同26日に対馬に着くと、領主・宗義智に預けられたのである。
初めは、山蔭の竜女院の配所にあって暫らくそこにとまっていたが、その後に藩臣・長田掃部の邸宅に移らされ、さらに領主の父親の隠居所に住むようになった。
有り難いことに、領主をはじめ老臣たちが奥師に敬恭の念を寄せ、殊に藩の家老・柳川豊前守は奥師と面識があったという。
柳川は、対明・対韓外交の顧問として秀吉の側近にあり、永く京都に居住したことがあった。
その時、奥師と交友し、柳川は奥師の主張に共鳴して妻子共々深く帰依していたのである。
それが幸いしてか、奥師の対馬における日常生活はさほど事欠くこともなく、厚遇されたようである。
ちょうど、奥師が対馬に流された翌月の7月15日、関ケ原の役が起こり、対馬の領主・宗義智が、石田三成率いる西軍に味方したため、流罪人の奥師と領主の宗氏とは計らずも同じ反徳川方の立場に立つことになった。
初めは、それも奥師に幸いしたようである。
しかし、関ケ原の戦いは、わずか一日で西軍の決定的大敗に終ったのであった。
寺報第187号から転載