不受不施の話(33

慶長法難一応の決着

 お万の必死の説得にも家康は日遠を許さなかった。
 お万は、一心にお題目を唱えながら「この上は師の訓えに従い、不惜身命、わらわの命は恩師に捧げて、ただ一筋に身延の法灯を守るのみ」と覚悟した。
 そして、日遠と自らの死に装束を縫い始めたのであった。
 このことを知った家康は「すぐ、余のもとにまいれ」とお万を呼び寄せた。
 お万は再び必死に説得した。
 日遠を処刑するなら自分も命を断つとの覚悟である。
 さすがの家康もお万の信心の固さに負け、日遠の処刑は中止された。
 時に、慶長13年(1608)の出来事である。

 日遠は釈放されたが刑を申し受けた身を憚って身延の大野に隠棲した。
 その地には、お万の尽力によって大野山本遠寺が建てられ、彼女の遺骨が埋葬されている。
 一応これで、秀吉の大仏千僧供養に端を発する法難は終結した。
 しかし、受不受の論争はくすぶり続けている。
 ここで十年ほど時間を巻き戻し、奥師(日奥)に再びスポットを当ててみよう。

奥師、対馬へ
 慶長4年(1599)11月20日の大坂城対論で、家康の激怒をかって対馬流罪を申し渡された奥師は、初め丹波の山奥・小泉に監禁された。
 罪は奥師一人だけに止まり、弟子や檀那、親類などには及ばず難を逃れたので、奥師の喜びは一方ではなかったようである。
 そして翌5年5月末、いよいよ対馬流罪が執行された。

寺報第186号から転載