不受不施の話(32

慶長法難その後(2

 この様子を身延の山で苦々しく見ていた僧がいた。
 身延第二十二世日遠である。
 日経が浄土宗との対論で負けと裁かれ、酷刑に遭ったことに大いに驚き、家康の不法ともいえる裁定に怒り心頭していた。
 日遠は、法主を辞して身延山を下り、駿府の感応寺に向かった。
 そこには、日遠に同意した「諸寺から『不退転の決意』をもって家康に抗議する意見書」が届いていたのだった。
 日経への処罰が法華宗内に論争を巻き起こす。
 それに乗じて~と踏んだ家康の思惑は外れた。
 むしろ逆に受不受の学派を超え、この法難に法華宗が団結し始めたのである。
 日遠は家康にお目通りを願った。
 手元の資料にはないが、養珠院お万の力添えがあったと思われる。

一気に法華宗潰しを狙う
 日遠は、家康に向って「日経のどこに非があるのか」と問い、かつ「日経に代わって浄土宗と再対論したい」と願い出た。
 これに家康は激怒した。
その場で日遠を取り押さえ、「5月12日、安部川原にて磔の刑に処す」と言い渡したのであった。
 養珠院お万は、事の意外な進展に驚いた。
 日遠といえば、天台・法華両学の奥義を極め、祖師の再来とまで仰がれ、その彼に熱心に帰依していたお万であったから、すぐに家康にすがって上人の助命を嘆願した。
 しかし、家康がいかに寵愛一方ならぬお万の願いとはいえ、おいそれと日遠を許すわけにはいかない。
 日遠処刑の日は刻々と迫っていた。

寺報第184号から転載