日経と廊山の対論の内容は詳しい資料がないので何とも言えない。
しかし、周辺の資料が通常の対論ではなかったことを物語っている。
単純に対論に負けたぐらいで鼻耳を削がれる酷刑に処されたのは不自然で、いつもの如く政治的介入があったと見るのが妥当であろう。
つまり、家康は最初から日経に恥をかかせ叩き潰すのが目的だったということである。
そのような用意された場に出向かなければならなかった日経は不運であった。
「日経が賊に襲われて半死半生の状態だったから答えることが出来なかった」というのも、正当に負けた事を隠すために作られた話という説もある。
しかし、日経ほどの論客が一答もせず負けになっている事や以後の騒動を見ると、作り話と断ずるには早過ぎると思えるのだ。
さて、日経とその弟子たちへの酷刑によって収束するはずだった慶長の法難だが、家康は追撃を始める。
法華宗の諸本山に対し、『浄土宗に詫び状を出せ』という命令を下したのである。
そう、家康には対論に名を借りた一つの狙いがあった。
この頃、家康は民衆を従属させるために仏法を利用し、各宗ごとに寺院法度を定めるよう命じていた。
しかし、法華宗はその命令に対し一向に服しようとしない。
而して、法華宗には以前から、受・不受の二派(学派)があって対峙していた。
今回の日経への始末が、この二派に論争を巻き起こす火種になるやもしれぬ。
そうなれば、喧嘩両成敗で両派を刈り取る契機が来ると家康が考えていたとしても不思議ではない。
寺報第183号から転載