暴行を受け、瀕死の重傷を負った日経に、まともな対論など出来るはずもない。
対論の判定を務める頼慶にもそれは理解できたはず。
しかし、日経とその弟子たち以外は敵だったのだろう。
判定者の頼慶は、「日経は廊山の問いに答えられない。
ゆえに、浄土宗の勝ちである。」
と宣言した。
そして「不言の法問は、脱衣に及ばず」という問答規則も無視され、日経と付き添いの弟子たちは袈裟・衣を剥ぎ取られたのである。
家康を中心に仕組まれた陰謀というには過ぎた言い方かもしれないが、少なくとも日経に「負け」を言い渡すのが目的の対論だったのかもしれない。
何にしても負けは負けである。
そして、袈裟・衣を剥ぎ取られた日経たちに、さらに家康は
「念仏は無間地獄に堕ちるということは経文にないこと、及び、今後は宗論がましいことは申さぬという詫び状を差し出せ!」
と迫った。
だが、重傷を負っているにも関わらず日経はきっぱりと拒絶したのである。
それに怒った家康は、「権威を恐れぬ不逞の輩、重罪に処せ!」と命じたのであった。
そう、これが家康の本音であり筋書きであったようだ。
こうして翌年二月、京都に送り帰された日経ら師弟の六人は見せしめのため、京都の町々を引き回されたあげく六条河原で、日経は耳と鼻を削がれ、五人の弟子たちは鼻を落とされるという酷刑に処された。
寺報第182号から転載