「江戸城において浄土宗増上寺と宗論せよ」との家康からの命令に、日経はこの本意を読み取った。
「これは容易ならぬことになった。
家康は、我が不受不施派を取り潰そうとしている。
まさしく我らに対する陰謀じゃ。
油断ならぬぞ。
いや、いよいよ御法のために一命を捧げる時がきたか!」と決意したという。
そして、日経は、しばし心を静めて黙考した後、傍らに控える一門の弟子たちにこう語った。
「江戸において、その宗論に勝つことは疑いない。
しかし、対決の相手は将軍家の宗旨であり、敵陣内での対論である。おそらく命はなかろう。
鷲山浄土で、お目にかかろうぞ。
さらば、さらば」
日経らは、一同の人々と別れを惜しみつつ、共に死を決っした五人の弟子たちと共に江戸に向って決然と旅立ったのである。
対論前夜、日経の宿所を襲撃
慶長13年(1608)11月14日、宗論前夜のことである。br>
いよいよ明日は、江戸城中で浄土宗との対決が行われるという夜のことであった。br> 理由もなしに、幕府の役人たちが大勢で日経の宿所を襲い、殴る蹴るの乱暴を働いたのである。
参考文献 不受不施派の源流と展開.不受不施派の研究.日蓮宗不受不施派読史年表.法難.日蓮講門宗読本.日蓮教学の研究.日蓮宗新聞.その他
寺報第180号から転載