かくて、日奥が対馬に流罪された後の京都の不受不施派は、その勢力が激減してしまった。
その反対に、日重ら長老派の勢力が急速に増し、その流れを汲む身延派もその後に日乾・日遠らを迎えると、不受不施派やそれを支持する関東の諸寺を圧して、長く日蓮宗の主流を成すに至るのであるが、それはもう少し後の話である。
ただ、ここで見過ごすことが出来ないのは、京都の長老派が、これを契機として権力者の家康に近づいたために、純粋にして伝統ある不受不施の宗義が乱れてきたことである。
そもそも不受不施は、日蓮聖人によって定められ、その後に弟子たちによって整理・規制が加えられ、室町時代には教団全体の宗制として確立したものであった。
長老派がとった行動は結果的に、強力な政治勢力が、仏の教えをその支配下に屈服させよう…とすることになったのである。
教団の安泰を思うが余り、波風を立てまいと思うが余り、政治勢力の手先に成り下がってしまった…という見方ができよう。
しかし、この弾圧はまだまだ始まったばかりなのであった。
日奥流罪の跡を継ぎ、日経らが活動
日奥が対馬に流されて以後というもの、盟主(リーダー)を失った不受不施派の勢力は全く地を払って、昔の面影がなくなってしまったようである。
この有様を痛く嘆いていたのが、日奥の弟子・京都の常楽院日経であった。
寺報第178号から転載