日奥の対馬流罪の陰には、京都の呉服商であった亀屋栄仁なる者の暗躍があったという説がある。
栄仁は商人であったがなかなかの実力者で、家康とは親しい間柄であったらしい。
それを知った京都の日蓮宗諸寺の長老たちが、目の上のコブである日奥を取り除こうと、密かに栄仁に頼んで家康に讒訴させたというのである。
よほど日奥の言動に、ほとほと手をやいていたらしい。
このことを証拠立てるのは、日奥と家康の対論の翌日に、大仏供養出仕派の日純・日通・日紹らが連名で、栄仁に次のような礼状を送っている事からである。
『内府様(家康)御前において一宗と日奥と対論を遂げ、思いのままに詰伏し、快く閉口せしめ、一宗の本意を啓き、年来の邪魔を却け候こと。
それから御前の儀、有様に御申成さる故に候(中略)理非を明らめ聞き召し分けられ宗旨の本意に屈すの事。
ひとえに貴翁の幸才覚えを廻らす故に候。一宗の老若各感悦せしめ候』
この礼状によれば、諸寺の長老たちは家康の面前で、思いのままに日奥を論破して日蓮宗の真意を示し、理非を明らかにして日奥を閉口させた かのようだが、どうも内容を飾るために創作した表現のようである。
この大坂城対論では、日奥は決して家康に負けていなかった。
むしろ強過ぎたのである。
内府の面前でも、その権威に少しも屈することなく、あくまで宗義を貫き通し、不出仕の信念を曲げなかった。
だからこそ、日奥は対馬流罪の憂き目を見たのであろう。
長老たちは、日奥を説得できるだけの力を自分たちが持っていない事を自認していたので、裏から工作するしかなかったようだ。
寺報第177号から転載