家康の面前に引き立てられた日奥であったが、少しも臆することなく、意気さかんに「対論は古法に従って、判者と記録者を設け、双方の申し分は経典やその注釈書などを参照して正し、紙面に載せて勝負を決めるべきである。
今回、この席では何らそのような設けもない。
これでは、理非の分別はでき申さぬ」と、正式な対論の場を求めたのであった。
しかし家康は、「記録は無用じゃ!」と語気鋭くそれを退けたのである。
日奥は、文証をもって、公平な判定者をおき、しかる後に対論を始めるべきであると要求して自説を曲げなかった。
これには、寛大な家康もついに怒りを爆発させたのである。
「汝、日奥!。
若輩の身をもって皆の意見に違い、不出仕を唱えるとは…。
汝のような奴は、もはや貴様一人だ。
法華の魔王め!」と家康が一喝すれば、日奥は「仏法の善し悪しは人の多きによらず。
ただ、経文に適うをもって善しとする」と負けずに言い返したのである。
日奥、対馬に流罪
家康はそれを聞いて「貴様のように強情を張る奴は、いずれ天下に事件を起こし、幕府の敵となる。
ただちに、対馬へ流罪に処す」と捨てるように言い渡したのである。
これに対し、日奥は「六年前に、妙覚寺を退出した時からこの命あると思わず、ただ仏法に従ってきた。
流罪や死罪に、今さら驚きはせぬ」と答えて万丈の気を吐いた。
しかし、大勢の者に取り押さえられ袈裟・衣を剥ぎ取られ、対馬に配流の処となった。
時に家康五十八歳。
日奥は三十八歳の若さであった。
元々、対論とは名ばかりで、日奥を一度でも出仕させるというのが目的の召集だったのだから当然の結末といえるだろうか。
寺報第176号から転載