不受不施の話(23

大坂城対論(6

 日奥は「何であろうと、出仕の儀は今回限りとし、重ねて御命令なきように」とキッパリ言い放った。
 一座に加わった高僧や諸大名たちは、固唾を飲んで日奥の返答は如何に…と手に汗して気をもんでいたが、この言を聞いて顔色を変えてしまった。
 今や家康は右大臣(内府)とはいえ、秀吉亡き後は、実質の将軍・執権に異ならない。
 大名と云えども異議をはさむ者などいなかったからである。
 「その家康が、これほどまでに言葉を尽くしたのに、もう少し和らいだ返答はなかったものか…」と度肝を抜かれてしまったのだ。

 対論者として、日奥と共に大坂城に登城した同じ不出仕派の日禎らも、家康の譲歩案を受け入れるよう日奥を説得する側に回り、必死になって日奥を諫めるのであったが、彼は頑として決意をひるがえさなかった。
 これまで日奥と共に、不受不施ゆえに不出仕を守ってきた日禎も「もはやこれまで…」と、『国主の御一行(証文)を出そう』という家康の申し出に「自分たちの名分が立った」として出仕することに決め、日奥と訣別してこの席を退いたのであった。

権力の裁定下る
 日奥をただ一度だけでも大仏千僧供養に出仕させようと、最大の譲歩案を示して妥協をはかった家康であったが、前述のように日奥は拒絶した。
 内府の権威と譲歩をもってすれば、まさか断ることはあるまいと思っていたのだろう。
 これには、さすがの家康も激怒した。
 「もはや対論には及ばぬ。直ちに、奴を予の面前に引き立てよ」と家来に命じ、日奥は家康の前に引き立てられたのであった。

寺報第175号から転載