最大の譲歩を提示した家康であったが、それでも従わぬ場合は罰をもって処するとの脅しを忘れなかった。
「その上に於いてなお同心せずば、天下政道の手始めとして、万人に見せしめの為、厳重な御成敗あるべし。
その身は云うに及ばず、親類縁者檀那援助者に至るまで、ことごとく厳罰が行われるであろう」
と譲歩案の末に書き加えられ、国主の権威を示して、寛厳両様の態度をもって臨んだのである。
日奥も内心では、家康の申し出を有難い事だと一度は思ったらしいのだが、よくよく考えてみれば、
《家康の命に従って、たとえ一度なりと出仕すれば、一時の安穏は得られるだろう。
しかし一度でも出仕すれば、後世は悪道に堕ちることに疑いの余地はない。
この身が滅びようとも、今はただ、身命を法華経に捧げるのみである》と覚悟したのである。
日奥、権勢に媚びず頑として応ぜず
日奥はさらに、
「いかに国主の御一行が賜るとも、一度出仕を遂げれば宗旨に違い申す。
所詮は、身命の果てる時が来たまでのことであって、弟子・檀那・親類が連座し、罪無き者たちが相果てる例も少なくない。
今度は、まして仏法ゆえの事であるから、自ら後世得度の大縁となる。
嘆くべきでない」と決意した。
そして、
「何であろうと、出仕の儀は今回限りとし、重ねて御命令なきように」と、キッパリ言い放ったのである。
まさに、不受不施の面目躍如といったところであるが、この日奥の発言に、一座に加わった高僧や諸大名たちは飛び上がって驚いた。
寺報第174号から転載