少数派の日奥らを出仕させる裏には、不出仕こそ法華の宗義に順ずることを知り、日奥らに声援を送る在家信者たちを抑える狙いもあったという。
命に従わぬ日奥日禎に人気があった訳だから家康にとっても長老派にとっても面白くない。
いつの間にか、受派不受派のどちらが宗義に順ずるかという論調から、内府の命に従うか従わぬかの論点にすり替わっている訳であるが…。
当然、家康が無策で臨むはずがなかった。
いよいよ対論当日。
日奥と日禎が登城すると、待ちかねたように並み居る大名たち、受派の高僧たちは、手を変え品を変え、口々に出仕するよう説得を始めた。
この人たちの多くは、純粋な信仰をもって名利に染まらぬ日奥や日禎の日頃からの言動を良く知っており、二人に好意を寄せていたのである。
なんとか、家康の怒りに触らぬようにと善意の説得であった。
代わる代わる一生懸命、出仕するよう日奥らを口説いたのだが、彼らが受け入れるはずもなかった。
そこへ、次のような譲歩案が家康から奉行を通じて示されたのである。
「大仏供養会には、ただ一度だけ出れば良い。
この出仕は、公儀の命令を重んじて、それに従うものであるから、宗制の傷にはならない。
しかし、もし後日人びとが何と批判するか分からないから、国主の証明書を出そう。
文面や用語は、そちらで自由に考えて良い。
また、他宗他派の僧と同座読経を嫌うならば、別室で一門だけの法席を張ってよい。
供養の一飯も、はばかりがあるならば、膳に向かってただ箸をとるだけでよい」と云うものであった。
この申し出は、極めて寛大な処置であり、最大最後の譲歩といってよかった。
だが、この文面の終わりには「飴と鞭」の鞭の弁が綴られていた。
寺報第173号から転載