不受不施の話(20

大坂城対論(3

 家康は、長老派と日奥の両者を大坂城に呼び寄せ、受不施・不受不施両論を対決させることにした。
 表向きは、法華宗内の紛争を終結させ、平穏な活動に戻して信者たちの困惑を解消するというものである。
 これを「大坂城対論」という。
 秀吉の大仏千僧供養会を契機として、教団あってこその教え『宗門の護持』か、教団の安泰より宗義を貫くことを優先する『信仰の純潔』か、京都法華宗が大きく二手にその立場を分かつて対決したことは本宗史上でも注目されるところである。

 大仏千僧供養の施主であった秀吉は、宗義を盾に出仕を拒否する日奥に対して割と寛大であった。
 しかし、家康は逆に厳しかった。
 何故なら、秀吉亡き後、家康が大仏千僧供養会を取り仕切っていたからで、内府の出仕命令を無視する日奥を捨てて置けなかったからである。
 秀吉が死去した後の慶長4年(1599)11月20日、家康は、日奥が京都に帰って来るのを待って、法華宗内の内紛を取り上げ、大坂城内で受・不受両派の対論を命じた。
 対論者は、受不施派の日紹と日統、対する不受不施派は日奥と日禎。
 家康の真意は、内府の権威をもって、日奥らを大仏千僧供養に出仕させることにあった。
 つまり、受派と不受派どちらが法華宗の宗義に順ずるか  など問題ではなかったのである。
 この日の対論者、日紹と日奥は、かつての盟友であり、共に不出仕論の急先鋒であった。
 しかし、日紹はその後、長老たちの説得攻勢で受不施派に転じた闘僧だったのである。

寺報第172号から転載