不受不施の話(19

大坂城対論(2

 京都法華宗の長老派と日奥の対立は長期化していた。
 ここで少し対立の経緯を簡単に整理してみよう。
 長老派は「教団が潰れてしまえば、誰がその教義を守っていくのか?」というのが主張。
 対する日奥は「不受不施義を守るためならば教団が潰れても仕方なし」という主張だといえます。
 京都法華宗が問題にしたのは、秀吉が始めた先祖菩提のための千僧供養に出仕するか否かでした。
 法華宗としては、信者でもない秀吉のために出仕し読経することは不受不施義に照らして「出仕拒否」が当たり前だった。
 しかし長老派は、あからさまに出仕を拒否すれば秀吉の機嫌を損ねると思い、権力による教団への弾圧を恐れた。
 それは「一度は出仕して秀吉の顔を立て、二度目からは上申し、免除を願い出て、次から不受不施義を守ろう」という妥協策として現れている。
 つまり、長老派も当初「出仕は本意でない」ことを承知していたと思われる。

 しかるに事実は上申を行わず二度目以降も出仕を続け、京都の法華寺だけが出仕の対象だったものを京都近隣の法華寺にまで出仕を勧めていった。
 その千僧供養は秀吉亡き後、徳川家康に受け継がれ、京都法華宗(長老派)の出仕はズルズル続いてしまう。
 長老派とそれに同調する僧だけが出仕して責任を負い、後世にその是非を問えばそれで済んだ面もあった。
 しかし長老派は「内府の出仕命令を聞かぬ政治的反乱分子」として日奥らを徳川家康に訴え出た。
 不受不施論で太刀打ちできない長老派がとった論点のすり替えである。
 そのために、色々と裏工作までしたようである。
 要するに派閥争いみたいな様相ですな。
 さて、対論とは名ばかりの所に赴いた日奥を家康が待ち構えていた。

寺報第171号から転載