お葬式でお坊さんがウダハラウダハラと読みあげるのが「お経」なのですが、さてその「お経」とはいったい何か、「お経」の定義は何かということになりますと、これはなかなか大変な説明になります。 「経」というのは、サンスクリット語の「スートラ」の漢訳語です。 「スートラ」というのは、もともとは「糸」のことですが、やがて「簡潔な規則」とか「簡潔な説明」という意味をもつようになりました。 そこで、暗唱に適するように、ゴチャゴチャした説明を一切省いて、必要最低限のことだけを記したものを、「スートラ」と呼ぶようになりました。 また、そういう感じのスタイルを「スートラ体」ともいいます。 ただし、どういうわけか、仏教のスートラというのはわりあいに説明の長いものが多くなっています。 サンスクリット語の刊本で五百ページ、六百ページにわたって、細かい文字がぎっしりと詰め込まれていて、どうしてこれが「スートラ」であるのか、首をひねりたくなるようなものもあります。 さて仏教のスートラ、つまりお経というものは、おシャカさんの言葉を記したものだ、という考えがあります。 しかし実際には、どんなに古いお経でも、おシャカさんが亡くなってから何百年もたってから書き記されたものなのです。 古い時代、一般にインド人は、文字を使う事がありませんでした。 すべて、暗唱に頼っていたのです。 仏教の場合も同じで、お経の編集というのは、お坊さんたちが集まって、あるお坊さんが暗唱するのを、他のお坊さんたちが聞き、チェックすることでした。 最初の編集は、おシャカさんが亡くなってから間もない時に行われました。 この時、お経を暗唱する人は「私はは、このように聞いております」(漢訳で「如是我聞」)という言葉を初めに述べて、それから暗唱したようです。 ですから、たいがいのお経は、この「如是我聞」で始まっています。 こういうわけで、そもそもお経というものはおシャカさんの全くあずかり知らぬところで、出てきました。 おシャカさんの直接の弟子が暗唱したといいましても、あくまでもそれは、そのお弟子さんの耳と頭を経由したものなわけですから、そのお弟子さんの考え、理解力によって、大なり小なり、ゆがみが出てきます。 やがて、どんどん代も変わり、さまざまな地域に伝えられていきますと、膨らませたり、削ったりという手が加わり、その歪みはますます大きなものになっていきまして、とうとう内容が矛盾するお経、ほとんど同じだけれども一部が違うお経などが、次から次にあらわれるようになりました。 さらに大乗仏教が伝えるお経もたくさんあります。 このお経は先に述べたお経とは、まったく起源を異にしておりまして、おシャカさんが亡くなってからなん百年も経った頃に、大乗仏教のさまざまなグループが、自分たち用に作ったものだということが明らかになっております。 ですから、こうしたお経は、おシャカさんの言葉を記したものだとは言えないことになります。 現に、旧来の仏教の人々から、大乗仏教のお経はおシャカさんの言葉ではない、という非難が投げかけられています。 しかしそれでは、大乗のお経はお経ではないのか、ということになりますと、それはそう簡単にはいきません。 といいますのは、今まで言わなかったことなのですが、お経が仏教にとって大切だというのはそれが、ただおシャカさんという一人の人物の教えを盛り込んでいるということによるのではなく、「悟った人」が語った「悟りの内容」と「悟りに至る方法」を盛り込んでいるということによるからです。 「悟った人」というのは、つまりは「仏」のことです。 おシャカさんはもちろん、この「仏」に違いありませんが、しかし逆は真ならず、「仏」はおシャカさんに限りません。 おシャカさんと同じ境地に達した(と自他ともに認める)人は、すべてこれ「仏」に他なりません。 したがいまして、そういう人が語った言葉は充分に「お経」の資格を持つことになります。 あるいは、「仏」に限りなく近い人が、インスピレーションみたいなものによって、「仏」の言葉を明らかに聞いた場合、その言葉もまた、多少ゆるやかに考えれば、「お経」だと言っても差し支えないことになります。 しかし、本当のところを言いますと、どこまでがお経で、どこからがお経でないのか、この判断は実はほとんど不可能なのです。 たとえば有名な「般若心経」に登場する人物は、「観自在菩薩」だけで、おシャカさんも仏も一人として登場しません。 「菩薩」は「仏」ではないのです。 それにもかかわらず、「お経」の扱いをズーとされており、このことに疑問を持つ人はほとんどいませんでした。 では、「如是我聞」で始まるものがお経なんだ、と考える人もいるでしょう。 しかし「如是我聞」がついていないものでも立派にお経として通用しているものもあります。 今述べた「般若心経」にも、この言葉はありません。 また、すべての仏典を指して「一切経」ということもあります。 この中には、お経の注釈書あり、教理の研究書あり、有名なお坊さんの伝記あり、なんでもかんでも入っています。 こうなりますと、仏教のことについて書いてあるものは皆な「お経」だということになるわけで、そうすると私めが書いているこの誌も「お経」だということになったりして、何がなんだか分からなくなります。 ずいぶん長い話になってしまいましたが、結局「お経」というのは、「お経」と呼ばれているもののこと、ということに落ち着くようです。 どうもご苦労さまでした。 |