先祖供養の話

 先に黄泉の国に逝った大先輩・ご先祖さま。
 ある時は厳しく、ある時は優しくしてくれた今は亡き祖父祖母叔父叔母父母兄弟たち。
 歳を重ねるに従い、友人たちが先立つ中、次第に自分の事として供養というものを考えるようになってくる。
 確実に、自分も黄泉の国に旅立つ日が近づいているから。
 今までは、他人事のようであったアチラの国の事が気がかりになってくる。
 だから、供養にも自然と力が入るようになる訳だ。
 追善という形でそういった人たちに供養する…その場に深く関わるようになると「供養」とは何なのかと改めて考えるようになってきた。
 ロウソクを灯し、お茶湯のおもてなし、お花で飾り、お香を焚いて、料理を捧げる。
 読経唱題をしてお釈迦様や宗祖の教え事を皆で唱える。
 年回忌の追善も、日頃の仏壇での供養も精神は同じ。
 あちらの世界で元気にやっているのだろうか?。
 ちゃんとお釈迦様に導いてもらっただろうか?・・・見えないけども、そこに思いを馳せる。
 ほんの短い時間であっても、拝んでいる間は心が安まっている。
 佛の境地とまではいかずとも、ザワザワしている心が落ち着く。
 様々な波紋が広がっている湖の表面が、鏡のように静寂になるように。
 光の供養・水の供養・お花の供養・匂いの供養・食事の供養・・・どれ一つをとっても、亡くなった人ばかりでなく、私たち生き佛にも欠かせない、生きていくために必要なものばかり。
 結局・・・、信仰をもつ者も、信仰をもたない者もいずれは死ぬ。
 誰も疑う余地のない事実である。
 しかもたった独りで、この世を去って行かなければならない。
 この寂しさにうち勝つのは並大抵ではない。
 先祖供養を通して、黄泉の世界との対話を、先に逝った人たちとの付き合いを留めておくのも安心を得るための保険かもしれないが、好むと好まざるに関わらず、遅かれ早かれ自分もあちら側に座るのである。
 供養は、「自分もこうして欲しい、こう祀って欲しいな」という純粋な気持ちの現れだと言えなくもない。
2000年宗報から日常