現在、私たちが一般に”お経“と呼んでいる仏教経典の多くは、西暦の紀元前後から八世紀頃にかけて、インドの各地で仏教信者の人々によって創作編集されたものであることが分かっています。 つまり、前回にも述べましたように、富永仲基(よみながなかもと)が洞察した通り、釈尊が亡くなって後にできたお経がほとんどである───いや、全部がそうであると言っても過言ではありません。 釈尊が亡くなってから、僧侶は世間と隔絶した寺院にこもり、修行と研究に没頭していました。 しかし、そういった学究的態度に飽き足らないグループが生まれたのです。 彼らは、在家の一般信者(皆さんのような方です)が中心になり、釈尊の説いた教えや規則に束縛されない自由な立場から、仏教を学んでいきました。 そして、自分だけでなく他人にもその精神を伝えようとしました。 そのため彼らは、独立した新しい宗教運動を展開し、数多くの経典を制作し編集するようになったのです。 その作品が、すなわち「大乗経典(だいじょうきょうてん)」と呼ばれるもので、法華経もその中の一つです。 このようにして出来たのが大乗経典ですから、厳密な意味では、釈尊の口から発せられた教え(言葉)ではありません。 こう言うと、「何だ! お経は釈尊の教えを書き記したものではないのか」と思いますが、たとえ釈尊の言葉ではないにしても『だから、仏教経典ではない』と言い切れるものではありません。 それについては、大乗経典の成立過程を詳しく解説すればお分り頂けると思いますが、それは別の機会にいたします。 ともあれ、仏教学が今日ほど発達していなかった六世紀の中国仏教者たちは、 「仏教経典は、すべて釈尊が悟りを開いて仏陀となった三十五歳から、亡くなるまでの四十五年間の説法の記録である」 と観たのは、当然のことでありました。 この見地から、中国の天台大師智ギ(ちぎ)は、各経文に記されている説法の年時に関するわずかな断片的記事を調べ、釈尊の説法と経典を年代別にランク付けしたのです。 この理論体系は、大乗経典が一般信者によって創作されたもの───であることが分かっている現在でも、容易に崩すことが出来ないほどに組み立てられています。 その中で、法華経は、釈尊が晩年の八年間にわたって説かれた経典であり、その教えは釈尊のそれまでの教えを集大成し、かつ最高にして無比なもの───と位置づけています。 |